感情センシング&ビジネスデザイン

人の”こころ”を測るセンシング手法の紹介と、それらのビジネス活用の可能性について考えます。

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【読書感想文】暇と退屈の倫理学

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暇と退屈の倫理学

 

 

私は割と良い大学を出て、割と大きめで安泰の企業に就職しました。

20代後半で結婚して、マイホームも建てました。

まさに生命保険のパンフレットに出てきそうな、THE・テンプレの人生!

幸せではあります、が、何か満たされていないような、

何だか”世間の言う幸せ”に流されているような、そんな気持ちがしておりました。

 

 

そんなことを上司に相談した時に、お借りした本がこちら

”暇と退屈の倫理学

 

本当に良い上司!職場環境にも大いに恵まれております。

早速読んで見ました!(実は内容がタフで、読破にものすごく時間がかかりました)

(しかもまとめるのにもその倍時間かかったぜ!超難解ィ!)

 

  

<<<まずは感想!>>>

 

 

お気持ち、わかります。

 

筆者の実経験で出てきた様々な人々。

・スポーツバーで、サッカーチームの応援に熱狂している男性。

 しかし応援に熱狂しているのではなく、熱狂している自分を見て欲しい様子。

 少し前に、女性誌の表紙のコピー「幸せそうって思われたい」が物議を醸していた。

 個人的にも、自分の無い哀れな感性だと正直に思ったし、今もそう思う。

 しかしながらその一方で、気持ちは分からなくも無いとも思う。

 

・進路面談で、自分が何を望んでいるのか分からない女性。

 ただ何かを与えられたい、動き出して欲しい。

 偶然の出会いのような、素敵な何かが自分の人生に起こるのを待つ感覚。

 でもそれが何かは分からないから、自分からは積極的に動けない。

 何か面白いことが起こってくれないかな、と常に考えている。

 気持ちは痛いほどよくわかる。

 何かが起こって、この漫然とした退屈から救い出してくれるのを待っている感覚。

 

満たされない気持ちを抱えつつも、自分がここにいることを誰かに見て欲しい、

 認めて欲しい。そんな感覚を持った中年男性。

 自分で自分の気持ちに区切りをつけて、納得して、

 世の中のニーズに合わせて生きていることに一方では満足し納得しつつも、

 もう一方では「もっとやれる・もっとこうしたかった」と思っている。

 これでいいんだよね、と納得しつつも、どこか違和感のある感覚。

 この気持ちも、切ないくらいよくわかります。。

 

 

”好きなこと”と”退屈”

 

・本当に好きなことってある?

 この問答は就活時から月一で聞き続けている気がするな。

 個人的に寝ることは大好きだけれど、そういった三大欲求系は一旦置いておいて。

 自分にとって本当に好きなことってあるのだろうか。

 好きなことに狂信的な人のことを羨ましいと思う気持ちはある。

 宗教もそう、アイドルの追っかけやスポーツなどもそう。

 そこまで熱中できること、真剣に打ち込めること(=好きなこと)がある人生は、

 幸せだと思うし、それがある人は、きっと退屈してはいない。

 

・その”好き”は自分の意志か?

 仕事は好きだ。でも一生懸命に働くのは何のため?

 休日をゆっくり過ごすため?それとも自己顕示欲や達成感?

 自分の好きな仕事をやっていると自分でも思っているし、

 周囲から評価されることも嬉しい。

 でもその楽しさは、どこからくるもの?一人で、誰にも評価されなくてもやるかな?

 世間一般がいう”成功”に囚われたものじゃないか?

 本当に好きなことなのかな。

 

 

結局全ての行動は暇つぶし?

 

・兎が欲しいのか?狩りをしたいのか? byパスカル

 兎狩りをする人に、兎を渡しても喜ばれない。「そういうことじゃない」と。

 彼らは狩るという行為をしたい。

「退屈という不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわしてくれる騒ぎ」

 彼らは欲している。

 パチンコもそう。やる前に月次平均結果としてお金をもらっても嬉しくないのだ。

 (月次平均だとむしろ払わないといけないか!ますます最悪。)

 う〜ん、これもわかるかもしれない。

 仕事も確かにお金を得るための手段だけれど、

 仕事を全くせずに給料だけをもらっても、嬉しくはない(いや、、嬉しいか?)

 つまり欲望の原因(退屈から逃げたい)と欲望の対象(兎を得たい)が

 異なっている、ビジネスなら非効率な、ただの”暇つぶし”ということ。

 

 それはわかる。人生は究極的に長い暇つぶしと個人的にも思う。

 またこの状況に対して、本書に記載があったコメントが心に響く。

「欲望の原因と欲望の対象を取り違えてるな、と指摘する人が、もっとも愚か。」

 金魚すくいを楽しんでいる人に、「いや金魚買えよw」という人がもっとも愚かと。

 これは”他人を指摘することで自尊心を満たす”という、

 同じく欲望の原因と対象を取り違えた、暇つぶしであると。

 自分が囚われていることに気づかず囚われを笑う愚かなヤツだと。

 なるほどね〜〜確かに。

 

 

そもそもDNA的にも原因ある?(歴史を紐解く)

 

・そんな昔から?農耕の始まり(1万年前)あたりからの異変

 我々は元々は遊牧民生活。

 今は定住生活だが、それは望んでというよりも止むを得ずであった。

 動くのは危険だし、さらに農作をする上では定住をせざるを得なかった。

 そうすると遊牧民生活に適していた索敵能力などの人のもつ優れた能力を持て余す

 そして暇になる。とのこと。

 みんなが旅が好きなのはそういうこと?

 

・生き方のモデルケースが提示されるようになってきた

 かつてのフォードが、こう生きよ(よく働き、週末は車に乗ってよく遊べ)の

 モデルケースを作った。

 それに人々は魅了されて、それが正解だと思うようになった。

 そこでガルブレイズは「自分の欲しいものが何であるか広告屋に教えてもらう必要の

 ある人は19世紀のはじめにはいなかっただろう。」と。

 今、消費者の欲しいものは、供給者が決めている。

 デザイン・機能・システム・・・我々は自分で選んでいるようで、

 ガルブレイスの言う通り、

 周りが良いと言っているものを勧められるままに購入しているかもしれない。

 人生観も、周りの幸せのロールモデルに沿っていて、だからこそ軋轢を感じて、

 そこに退屈を感じてしまうのかもしれない。

 私の人生の不安感と何となく似ていて、共感できるなぁ。

 

 

それで退屈を和らげてくれるものは何?

 

・消費ではなく浪費

 消費と浪費の違い、わかりますか?

 消費する対象はものではなく、付与される観念や意味。有名な店で食べた、など。

 浪費する対象はもの。美味しいものを食べた、など。

 携帯を最新のものに変えた。消費は最新のものを持っているという事実に満足する。

 携帯を最新のものに変えた。浪費は最新の携帯電話そのものに満足する。

 

 消費は止まらない。有名な店は次々出てくる。終わらない。

 浪費は終わる。美味しいものを美味しいと感じられるキャパは有限。

 

・ポジティブでもネガティブでも、刺激は退屈よりまし

 「ファイト・クラブ」という映画のストーリー。

 充実していながらも変化のない毎日を送っている主人公が、

 日々移動に利用する飛行機がいつか事故を起こしてくれるのを願う。

 ネガティブでもポジティブでも関係なく、何か刺激を起こして欲しい、

 それに巻き込まれて、この退屈から突然連れ去られたい。

 気持ちは分からんでもない。 

 

・貴族の生活に学ぶ

 昔の貴族は、自分は動かずに周りに多くのことをやらせることがステータスだった。

 服を着せてもらったり、紅茶を入れてもらったりね。

 つまり、”どれだけ暇である事”がステータス。

 その為、「彼らは暇を楽しむ能力に長けていた」とのこと。

 彼らは何でもない植物を愛でて、四季の移り変わりや絵画を楽しんだ。

 確かにそれらの、俗に言う”高尚な感覚・趣味”は余裕がないとできないよね。

 それにアート的な感覚は確かに貴族っぽい人の方がありそう。

 

 

そもそも退屈ってなに?

 

 ハイデッガー曰く、退屈は3つの形式に分けられる。

 ・退屈の第一形式(俗に言う”退屈”):

  やりたいこと・やるべきことがあるのに、それが阻止されている状態。

  これは新幹線で移動中に、スマホの充電が切れてやることない、ような状態。

  分かりやすいね。

 

 ・退屈の第二形式(ちょっと複雑な、今風の”退屈”):

  世間一般的に楽しいと言われることをしてはいるものの、

  心から楽しめていない状態。

  周囲に合わせて自分がなくなる、空虚になる状態。流されている感覚。

  祝いの席でお酒や会話を大人数で楽しんでいる。会話そのものは楽しいし、

  相手も悪くない。しかしながらふと感じる、なんとなくの退屈。

  これは想定の範囲内のことしか起こっていない予定調和な状態、

  そして世間では楽しいと思われていて、楽しいはずだと自分でも思っている状態、

  と個人的には思う。

 

 ・退屈の第三形式(根源的で最強の”退屈”):

  なんとなく退屈、な状態。

  自分には多くの可能性があり、自由に様々なことができる、状態にあるものの、

  それを試すことなく安定した場所からそれを眺めている状態。

  これはすごくよくわかる気がする。

  何かができる気がするけれど、何も初めたくないような、今の居心地の良さから

  出たくないような、でも何かやらなくちゃいけないような気がするけど・・・

  のような無限ループのねっとり鬱々とした感覚が、この状態に近い気がする。

 

  人は常に、この第一・第二・第三形式の退屈のどこかにいる。

  第三形式にいる人は(私もイマココ)、

  狂信的な宗教家やストイックなアスリートなどの人々を、”羨ましい”と思う。

  それほど熱中してエネルギーを割くものを見つけており羨ましいと。

  人はこの第三形式の退屈の声から逃げるために、

  使命感ややるべきことを決めて、それを実行する。

  おぉ、そんな気がします。

 

  そして何かに熱中し始めると、それを阻止する第一形式の退屈を感じてしまう。

  私たちは第一→第三→第一と常に行き来している。

  つまり無限ループ。我々はこの退屈のループから逃れるすべを持ちません。絶望!

 

 

結局この退屈から抜け出すために、どうする?

 

・決断すること。

 シンプルに、決めればいい。君は自由だ。

 ここで大事なのは、何かをやれ、始めろと言っているわけではないということ。

 やらないということを選んでもいい。とにかく、決断することが大事。

 何かのミッションの奴隷となることで安寧を得る(退屈から脱出する!)

 資格を取る、昇進する、何でもいい。それで第一の退屈へ。それもありかな。

 

・楽しむためには訓練をすること。

 それは本当にそう。

 普段の生活も、香り・雰囲気・音・風・・・楽しめる要素は無限にある。

 甘えるな!感性を磨け!己の豊かさのために!

 

 

<<<読んでどうする?>>>

 

自分の状況を知ることで落ち着いた感がある

 本誌は退屈の解消法を教えてくれるというよりも、

 退屈とは何かを教えてくれる本だったように思う。

 人間は分からないものに対して不安に思うので、退屈とは何かを理解して、

 自分がどの状態にいるのかメタ認知できた今の状態は、

 本を読む前と比べても、より安定している状態な感覚がある。

 

今後やる予定のこと

 

・決めていこう!

「何となくダラダラしたな〜」ではなく、

 ダラダラするならダラダラする!と決めてやろう。

 とにかく決断して、物事をすすめていく癖をつけよう。

 

・楽しむ為に勉強しよう!

 様々なものを楽しめるように、好奇心を持っていろんな知識を身につけていこう。

 センス磨きや引き出しを増やすことにも繋がりそうだし、歴史・装飾・文化など、

 様々なことを身につけていこうと思いました。

 

 

 

”暇と退屈の倫理学

読むのにも纏めるのにも、本当に時間がかかりました。

しかしその分残るものがある本でした。貸してくださった上司に感謝。